1999年4月、広島県豊田郡瀬戸田町福田(生口島)を訪れました。
大正3年生まれのおじいさんは、星がひかってるだけで明るかった昔の暮らしの記憶をたどりはじめました。
「明るいです。そりゃね、船のなかをさっさ、さっさと歩いていくだけの明かりはある」
月がなくても星の明かりだけで充分でした。
反対に、星の見えないときは…。
「そりゃいちばんこわいのは雨とか。そんなときはいちばんこわい。雨なんかは一寸先も見えない」
星が見えないときの恐ろしさと見えるときの安心感。その違いはあまりにも大きかったのです。そして、星が見えるときは、何と言っても時間がよくわかったのでした。
「星が時間帯よな。時計持っとる人は、ようけおらなんだぐらいじゃから。イチバンボシじゃいうてから日が暮れてから、ちーとしたらあがってくるんですよね。日が暮れたら、いちばん早うわかる星。大きいんじゃ。いちばん先にイチバンボシが出て、こんどはミツボシいうて三つこう並んだ星があったんじゃ…」
ミツボシ(オリオン座三つ星)が何時頃出るか確認すると、「夜通しのうちには何時間かは出るんですね」という答がかえってきました。出る時間は変わるものの一部の季節を除いて何時間かは見えると伝えていたのです。
危険だからこそ、暮らしのなかでの助けあいというものをたいせつにしました。
どこの港に行ってもよそから来た人は大事にしてくれました。飲み水をもらったり、港へとめてもらったりしました。
「あんたらどこから来たんじゃよ。わしゃ瀬戸田だよ。瀬戸田だいうてどこらあるんじゃろいうぐらいから話がはずむ。人間は話をするほど和合していくのです。おまえらそこに船を置くのはいいけど、ここにいつもおる船が戻ってくるぞ。ちーとこっちつないどけよな−と」
地域をこえて、人と人が話をすること、これは海で生きるために欠かすことのできないことでした。また、このようなつながりがあったからこそ、星の伝承も地域をこえて伝えられていったのです。
「船のことだから、魚がありゃ魚もたまにさげていく。そうすると、オカの人がダイコンをこれ食べやいうて、こういうあいさつ」
おじいさんは、「こういうあいさつ」と言いました。魚と野菜の交換を「あいさつ」と表現したのです。食べるものをお金で買うしかない私たちの失ってしまったたいせつなものが、この「あいさつ」という言葉にはありました。
おじいさんは、「ひとつこれだけは覚えておいてください」と前置きして語りはじめました。
「船乗りいうのはね、昔やったら海落ちて死ぬでしょ。そしたら一週間ぐらいのうちには浮いてくるわけ。船に乗すのはいやじゃけど、これだけはほっとくわけにはいかなかった。仏を、船で持って帰ったり、綱かけて連れて帰ったりした。見放しは絶対にせん」
裏のお寺には、そのようにして連れて帰った無縁仏がたくさんありました。
「自分たちの費用で?」と尋ねるますと、「そうです、自分たちもいつどうなるやわからん」という答がかえってきました。
人間が死んだら行くところ、それは、天の川でした。
「昔、賽の河原ってこう星がずーといっぱいようけ虹みたいになってたね。ああいうやつは見よった。死んだらあっこに行くんじゃ。賽の河原行くんだ」
星は、死んでからの暮らしにも通じていました。
生活と星…、そのかかわりの大きさ、そして、星と暮らした時代のやさしさ、これからも記録を続けていきたいと思います。