第1節 プレアデス星団
(1)プレアデス星団の星名
おうし座のプレアデス星団は、次の3つの面で人びとの暮らしとかかわりが深かった。
@時刻を知る目標
オリオン座三つ星と並んで、生業や生活の様々な場面での時刻を知る目標として頻繁に使用された。イカの釣れる時をプレアデス星団の出によって知る事例についても、北海道、東北、北陸、山陰と広く分布している。
A季節を知る目標
生業における目標(例:播種の季節等)、生活における目標(例:霜の季節等)として使用された。
プレアデス星団は、人びとにとって、絶対止まらない大空の時計であるとともに正確なカレンダ一であった。
そして、毎日の暮らしのなかで、特徴の認識にもとづいて、あるいは、暮らしと星空を重ね合わせる過程において、多様な星名が形成された。
プレアデス星団の星名を、スバルの系統、ムツラの系統、群れ星の系統、その他の系統に大きく分けて考えていきたい。
<1>スバル
現在もっとも広く使われている日本の星名は、スバルである。
約千年前に枕草子で、「星はすばる……」と登場し、今ではハワイの「すばる望遠鏡」の名前にもなっている。
しかし、瀬戸内海の水軍の『能嶋家傳』には、次のように「スバル」ではなく、「スマル」という星名が記録されている。
「星すまると云星を見る也。月の出入に日和易らねどもすまるの入に替るは日和損する也。殊に秋冬はすまるの入を專に見る也。余の星は日和見る事無之」(注1)
ここに登場する「すまる」は、現在も兵庫県より西ではスバルよりも広く分布している(注2)。
スマルという星名は、古事記に登場する古代の玉飾り「美須麻流之珠(ミスマルノタマ)」に通じるが、そのような見方とは別に、タコツボをひっかける漁具「スマル」をイメージしたケースも伝えられている。航海とプレアデス星団のかかわりは深く、海での暮らしが星名に結びついていったのである。
ところで、「スバル」あるいは「スマル」という言葉は、「統ばる」「統まる」(集まってひとつになる)という意味で、ひとところに集まっているプレアデス星団の様子をうまく表現している。しかし、スバルという言葉を、そのことを意識しないで使っている。
愛媛県越智郡魚島村魚島には、次のような俚謡が伝えられている。
「天がせまいかよー、スマルボシャなーらぶよ、海がせまいか、エビかごむーよー」(注3)
空は広大なのにもかかわらず集まってひとつになっているスマルボシ(プレアデス星団)を、海は広大なのに体を小さく曲げている海老にたとえた俚謡は、昔からの「統(す)まる」という思いに通じる。
スバルの系統のもっとも古い星名を古代の玉飾りに通じるスマルと仮定して、その多様な星名の転訛をたどると下図のようになる(注4)。
スバルの系統の星名の転訛
スバルの系統の星名の南限は、トカラ列島である。喜界島・奄美大島より南では、スバルではなく群れ星の系統の星名が分布している。
「スバリ」「シバリ」「ヒバリ」というようなスバルの系統の星名の多様な転訛は、津軽半島と能登半島でみることができる(注5)。
<2>ムツラ
スバルの次に広く伝えられているのは、ムツラである。
ムツラは、主に東日本に分布する(注6)。6つの星が連なっている様子を六連星(ムツラボシ、ムヅラボシ)と呼んだのだが、六つの面(ツラ、顔)をイメージしたケースも伝えられている(注7)。
毎日の暮らしを星空に描きつづける過程で、身を寄せ合っている六人の顔という伝承が形成された。
ムツラにおいても、スバルと同様、様々な星名の転訛が見られる。ムツラからムヅラ、ムジラ、ムジナ、ウズラへと転訛していった。
そして、転訛とともに、ウズラ(鶉)という鳥がかたまって飛んでいるように見えるからウズラボシと呼んだというように、イメージはひろがっていった(注8)。
北海道亀田半島地区には、ムツラの系統の星名が分布しているが、下北半島からの伝播と思われる。北海道松前地区、上磯地区のムツラの系統は、津軽半島から伝播したのではない。津軽半島には主にスバルの系統が分布する(注9)。
<3>群れ星
喜界島・奄美大島より南では、群れ星の系統の星名が伝えられている。プレアデス星団は、星がひとところにたくさんかたまって群れているように見えることから「群れ星」という星名が形成された。
群れ星においても、ムリブシ、ムリプシ、ムリカブシ、ブリブシ、ブリフシ、ブリムン、ムニブス、ンミブス等の多様な星名の転訛が見られる(注10)。
トカラ列島以北においては、群れ星の系統の星名はほとんど記録されていない。わずかに、ムラガリボシ(静岡市)が記録されている(注11)。なお、たくさん集まっていることから生まれた星名としては、「ゴジャゴジャボシ」「アツマリボシ」が伝えられている(注12)。
<4>その他
一般的に北斗七星を意味するナナツボシがプレアデス星団の星名となったケース、暮らしの様々な場面が星名となったケースがある。
[1]ナナツボシ
ナナツボシがプレアデス星団を意味するケースは、青森、静岡、広島、大分、福岡、鹿児島等に伝えられている(注13)。
大分県別府市では次のような伝承が伝えられていた。
「ナナツボシさまはな、ハナ、八つあった。安心院のお寺の坊さんがひとつ祈り落としたという。もとヤツボシやった。八つあったけど、ひとつ祈り落としたから七つになった。八つあったけどひとつは安心院の剣星寺にある。ヤツボシ、ヤツボシ、ゆかりはいいわ。今はナナツ、ひとつは安心院の剣星寺」(注14)
飯田岳樓氏が祖母から聞いた話では、「七つ星さまは六つこそござれ、一つは深見の竜泉寺」で、八ではなく七である(注15)。野尻抱影氏は、ギリシア神話のプレアデス姉妹の一人が彗星となって姿を消したという話を連想させると指摘している(注16)。
[2]暮らしの様々な場面に関係する星名
食生活に関する星名「スイノウボシ(うどんを揚げるのに用いるスイノウ)」(注17)「ミソコシボシ(柄のついた揚げザル)」(注18)「コゴメボシ(粉米)」(注19)「ブドーノホシサン(一房の葡萄)」(注20)、衣生活に関する星名「カンザシボシ」(注21)、住生活に関する星名「ハホガタボシ(農家の藁ぶき屋根にあける煙出しの穴)」(注22)、信仰に関する星名「六地蔵」(注23)、芸能・娯楽に関する星名「ハゴイタボシ(羽子板)」(注24)、農具「ツチボシ(藁を打つのに使用する槌)」(注25)、漁具「スマル」(注26)等、暮らしの様々な場面で星名が生まれた。
また、ソーダンボシ(相談星)(注27)という星名は、星空にも自分たちと同じような「暮らし」があって、星ぼしが集まって相談していると考えたことを示している。
(2)プレアデス星団・暮らしの歳時記
<1>一時期を除いて、ほぼ一年中見ることが可能なプレアデス星団
プレアデス星団は、冬の星と思われがちだが、暮らしとのかかわりは、冬だけではない。
プレアデス星団は、5月の一時期を除いて、ほぼ一年見ることが可能だからである。換言すれば、ほぼ一年中生活環境のなかにあった。
プレアデス星団を見ることができない期間は、沖縄県竹富町、鹿児島県鹿児島市及び静岡県御前崎市で約22日、北海道札幌市で約25日(西暦1900年、太陽高度−10度の場合)と、札幌は長くなるが、それほど日本国内での地域差はない。
沖縄県竹富町について1400年まで時代をさかのぼったがほぼ同じである。見ることができない時期は、時代をさかのぼるにしたがって早くなり、例えば沖縄県竹富町で1900年は5月10日〜31日頃なのが、1400年は5月2日〜23日頃となる(注28)。
プレアデス星団を見ることができない期間について、沖縄県竹富町波照間島には、次のような「星水(プシイミジイ)アユ」という古謡が伝えられている(注29)。
「星水ヌヨイ、ユドゥンヤヨイ、四月ヌ、イリユドゥンドゥ」
「星(プシ)」とは、プレアデス星団、「ユドゥン(淀ン)」とは、地平線下に沈むこと。プレアデス星団は、陰暦4月8日から一週間は西に沈んで見ることができないが、一週間後の明け方の東の地平線で出会うことができると歌ったのである。
実際に一週間後に出会うことが可能かどうか、日の入り後、日の出前太陽高度−18〜−5度について考えた。(図参照) その結果、日の出前、日の入り後−5度の場合においても、ほぼ10日後となり1週間では無理であることが判明した。また、実際は透明度がよくても−5度ではプレアデス星団を見ることは不可能であり、仮に太陽高度−10度とすると、見ることができない期間は、1900年、1700年、1400年で約22日となる(注30)。
しかし、プレアデス星団との別れと出会いを観察して歌うことに、一日も長くプレアデス星団とともにいたいという人と星とのかかわりの原点に通じる思いを見い出すことができる。
プレアデス星団との別れ、出会いについて、その他、次のような伝承が伝えられている。
@別れ・稲植えの星
桑原昭二氏は、プレアデス星団を見ることができなくなる時期の生活とのかかわりのなかで伝えられた「いねうえのほし(稲植えの星)」という星名を記録されている。5月頃、稲を植える頃にタ方西の方にかくれることから形成された星名である(注31)。
A出会い・漁師の競争
明け方の東の地平線で最も早く見る競争をしたという静岡県焼津の漁師の事例が伝えられている。その結果は、6月9日だったという(注32)。1900年の場合、太陽高度−13度のときに高度約2.2度まであがってきており、見ることが可能だったのである(注33)。しかし、梅雨の季節ということもあって、出会いは夏至の頃となるときもあった。プレアデス星団と東の水平線・地平線で出会ってから、その出会いは日に約4分ずつ早くなっていく。イカ釣りの漁師さんがプレアデス星団がのぼってくるのを目標にすることが可能なのは、この時期からである。そして、続いて7月中旬にはオリオン座三つ星と出会う。(つづく)
注
(1)住田正一『海事資料叢書 第一二巻』巌松堂書店、1930、p.105。
(2)桑原昭二氏は、「すばる」は近畿から東海、関東の一部の地域にしか分布していないのに対して、兵庫県から中国・四国・九州へは「すばる」でなく、「すまる」が分布していると指摘している。
(桑原昭二「星の和名とその分布」『言語学林1995-1996』三省堂、1996、p.845。)
(3)筆者による調査、調査年月:1984年2月。
(野尻抱影氏によると、前大納言為家、西行法師の連歌に登場している。また、プレアデス星団を海老と対比した俚諺は、山口、高知に伝えられている。
野尻抱影『日本星名辞典』東京堂出版、1973、p.107。)
(4)北尾浩一「スバルについての調査報告」『ステラ No.1』東亜天文学会、1991、p.48。
(5)同上、pp.41−42。
(6)桑原昭二氏は、兵庫県の播但線の香寺町やその他多くのところで、ムヅラボシを記録している。従って、東日本以外にも一部分布する。
(桑原昭二『星の和名伝説集−瀬戸内はりまの星』六月社、1963、p.121。)
(7)秋田県男鹿市門前、茨城県北茨城市大津町の事例。
(北尾浩一「ムツラについての調査報告」『ステラ No.3』東亜天文学会、1994、pp.36-37。)
(8)同上
(9)津軽半島においては、松前との交流は深く、ヒバリというスバルの系統の呼び名とともにウズラというムツラの系統の星名を伝えているケースもあった。
(北尾浩一『星と生きる 天文民俗学の試み』かもがわ出版、2001、pp.30-35。)
(10)北尾浩一『星を見よう! おじいさん、おばあさんの星の話』ごま書房、2004、pp.38-40。
(11)内田武志『星の方言と民俗』岩崎美術社、1973、p.21。
(12)同上、pp.19-20。
(13)野尻、前掲書、p.117。
(14)北尾浩一『ふるさと星物語』神戸新聞総合出版センター、1991、p.111。
(15)野尻、前掲書、p.117。
(16)同上
(17)同上、p.124。
(18)同上
(19)同上、p.119。
(20)内田、前掲書、p.21。
(21)野尻、前掲書、p.155。
(22)同上、p.124。
(23)同上、p.117。
(24)同上、pp.121-123。
(25)同上、p.124。
(26)同上、pp.114-115。
(27)内田、前掲書、p.21、p.46。
(28)長谷川一郎氏による計算。なお、本稿においては、プレアデス星団の位置は、おうし座η星を用いた。
(29)喜舎場永王旬『八重山古謡 下巻』沖縄タイムス社、1970、pp.581-586。
(30)前掲(28)
(31)桑原、前掲書、1963、pp.124-125。
(32)内田、前掲書、p.3。
(33)前掲(28)(本ホームページは、東亜天文学会『天界』に掲載された『天文民俗学試論』を一部修正したものです)